2008年12月02日

高校第10回(昭和33年卒)東京『燦燦会』同年会の報告です。

11月19日、東京新宿で昭和33年の卒業生40名の出席で、県陵卒業50周年記念の学年会が開かれました。
 これまで『33会』と称していましたが、「これからも老いてますます輝く人生を」と『燦燦(さんさん)会』と改名することになりました。
 はるばる松本から本部同窓会幹事の元A組の三ツ山和志氏がかけつけてくれました。同級生の上条恒彦氏からは「舞台とぶつかり、残念ながら出席できません」という電報が寄せられました。
 50年ぶりの再会という人も多く、自分の加齢は棚に上げて「お前ずいぶん薄くなったなぁ」とか「お前こそ真っ白じゃねぇか」とか勝手なことをほざいて、たちまち50年前にタイムスリップし、すっかり高校生に戻ってしまったひと時でした。
 C組の山口格氏は慶応大学のニューヨーク分校進出に尽力、今は優雅にフルートを楽しんでいます。G組の森義雄氏はNPO法人を立ち上げ、子供の健全育成に尽くしているそうです。私事で恐縮ですが、山はNGOのネパール教育支援の会に参加し、ネパールの貧しい子供たちの自立支援のかたわら、ヒマラヤに4回挑戦。これまでの最高地点は昨年の5,360mのゴーキョでした。来年は6,000mをめざします。
これは全員の近況報告のほんの一部です。いずれも古希(70歳)を目の前にして、元気いっぱいのかくしゃくたる様子に、あらためて力強さを感じ、勇気をもらいました。
 最後の全員合唱は勿論『校歌』と『覇権の剣』でした。何年たっても忘れないものですね。
 終了後も名残惜しくて二次会、三次会と流れた人もいたようでした。来年の再会を楽しみにしています。

元A組 山正義

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2007年05月19日

県球会が発足しました

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県陵同窓生による定例ゴルフコンペ会です。ご参加ください。  

 松本浅間カントリークラブの会員で、県稜同窓生による定例ゴルフコンペ会が発足しました。 縣陵打球会・浅間倶楽部という名称で、略称『県球会』といいます。
 ゴルフをケンキュウするのも目的の一つですが、同窓生の親睦と健康増進、技量の向上などを目指して、冬のクローズ期間を除き、毎月一回開催することにしてスタートしました。
 第一回目は、素晴らしい好天に恵まれた4月29日(昭和の日)乗鞍コース6組、常念コース6組がそれぞれスタートする46人の参加者により行われ、上は第5回卒業生から、一番若い第41回卒業生まで、年齢差を越えて、素晴らしい時間を過ごしました。歩ける人なら誰でも、いくつになっても楽しめるゴルフというゲームに、改めて感謝をしたい気持ちになりました。
 結成のいきさつは、下記の設立趣意書をご覧ください。
 運営の中心になる主な役員は次の通りです。
    会 長  浅川雅史  (高11回卒)
    幹事長  前田紳一  (高19回卒)
    会 計 小平喜照  (高6回卒)
    事務局  山崎正治  (高5回卒)

  第一回目の競技結果は、たいした意味がないので省略しますが、同窓生の皆様で、入会のご希望があれば是非ご連絡をください。    


 上高地自動車株式会社  取締役副社長
    前田 紳一   Shinichi Maeda  

 本社 〒399-0033 長野県松本市笹賀7918
          TEL 0263-25-5662
          FAX 0263-25-5699
e-mail : s.maeda@kamikochi-jidosha.com





県稜同窓生のゴルフ会発足に思う

                                      高十九回  前田 紳一

 ゴルフができる人は恵まれています。家庭の事情、財布の事情、身体や仕事等、諸々の事情に恵まれていなければ、ゴルフはできません。さらに仲間と機会に恵まれることも、たいへん大事なことです。

 青春の一時期を同じ学窓で過ごし、今また松本浅間カントリークラブのクラブライフを共にし、嗜好を同じくする我々が、年齢の上下のへだてなく、ゲームの興奮を通して再び相まみえる機縁に、深い感慨を覚えます。このたび松本浅間カントリークラブの会員による、県稜同窓生の定例ゴルフコンペ会の発足に当たり、まずゴルフという偉大なゲームに対する畏敬の念と、感謝の気持ちを持って祝意を表したいと思う。

 そして、ここであらためて我等が母校の三大精神を思い出してみよう。

 曰く「質実剛健であれ」 「大道を闊歩せよ」 「弱音を吐くな」であり、これはそのままスポーツマンシップやフェアプレイを尊重する態度、ネバーギブアップの精神に通ずるものであり、ゴルフに対する教訓そのものである。かつての素直ならざる高校生の身にも、どこかにこの三大精神の記憶が残っていて、投げ出したくなるような大叩きのゲームの展開に対しても、瀬戸際で踏みとどまることができたのかもしれない。

 さて、本年正月の賀詞交換会の酔余の思いつきから、発足の準備を始めたわけですが(不謹慎ながら)、こういう会の立ち上げについてはプロである山崎正治さん(母校の体育教師でもありました)が、実務能力を発揮して今春第一回目の定例会に向けて準備を進めております。年間予約もしなければなりません。

 趣旨にご賛同いただける方により、会の運営の大枠を決めていきたいと思いますので、皆様のご協力をお願い申し上げます。

 その昔、スコットランドの草原で、羊飼い達が手にした杖で、ウサギの巣穴めがけて小石を打って遊んでいたというのがゴルフのルーツであるという。

 信州の寒く長い冬をしのぎ、暖かい春になった喜びに戸外へ飛び出し、無心に白球を追う野遊びに、邪気なく戯れ遊ぶという、そんな会になればいいなと思います。

 かつて、松本に遊んだという甲子園二連覇の徳島・池田高校の名将蔦監督が、裏町のとある酒場に残した句を最後にご紹介します。

      老いらくの恋も忘れて 球あそび



松本浅間カントリークラブ会員の、県陵同窓生による定例ゴルフコンペ会

      名称について  ( 私案 )   高19回  前田紳一

    縣陵打球会・浅間倶楽部      県陵打球会・浅間倶楽部

    県球会・浅間倶楽部   →   県球会

 打球とは?

 昭和の初期、当時の英米排斥風潮と国粋主義的な時代の空気の中で、ゴルフ用語の邦訳が要請されていた。それ以前は、明治35年の日英同盟、大正時代の摂政宮(昭和天皇)訪英、英皇太子プリンス・オブ・ウェールズの来朝と、駒沢にあった東京ゴルフクラブにおける昭和天皇とのゴルフマッチ等、英米との蜜月時代で、日本における初期のゴルフ興隆時代でもあった。だが、やがて満州事変、そして太平洋戦争をむかえつつあった当時、日本ゴルフ協会が大日本体育会に統合され、敵性語である専門使用語を邦語で統一することになったため、邦語化の委員会が発足し、次のような用語が発表された。 

   ゴルフ・・・打球  ハザード・・・障害区域  アウト・バウンド・・圏外

   ティーイング・グラウンド・・・打出し区域   バンカー・・・砂窪

   ホール・・・球孔   キャディ・・・球童   ハンディキャップ・・・均率 

   パー・・・標準   バーディ・・・隼(はやぶさ)   イーグル・・・鷲

   ブービー賞・・幸運賞  エクスプロージョン・・爆打  アドレス・・・照準

   プロフェッショナル・・・専門専士   エティケット・・・打球作法  etc

 ゴルフの邦訳が「打球」に決まるまで相当の曲折があり、原球、郊球、園球、苑球、闘球、草球、孔球、杖球、紳球、棒球などの候補名があげられたという。

  我々は現在、無邪気にフェアウェイを歩き、爽快さを楽しむ幸福を享受することができるが、かつてゴルフが敵性スポーツとして弾圧された受難時代があったことを想起し、用語を邦訳してまでゴルフを守り続けた先人の労苦を偲んで、会の名称に「打球」を入れたかった真意を理解していただきたい。

 さらに、母校の校名にある「県」という字には、地方とか田舎という意味があり、これはCOUNTRYと同義ですから、ゴルフ会の名にふさわしいと思っています。

参考資料

 昭和19年、競技規則改正委員会が、ゴルフ規則の邦語版「打球競技規則」をつくった。

これは時代を反映し、競技精神として「日本的道義理念」の高揚を意図したものであった。

 

 たとえば第1章総則第1条第1項の「競技の目的」には、

「打球競技ハ皇国臣民ノ本務ヲ尽クスニ必要ナル精神力並ニ体力ヲ養フコトヲ目的トス」 とあり、また第58条の「打球作法」(エティケット)の前文には、

「打球競技者ハ武士道ノ精神ニ則リ、公明且真摯ナル態度及敢闘ノ熱意並ニ必勝ノ信念ヲ以テ、競技ヲ終始スベキモノニシテ、ソノ作法トシテハ、左記諸項ヲ遵守スルヲ要ス」

などとしている。


タグ:ゴルフ
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2006年09月01日

原 光好さん(高21回)からご寄稿をいただきました

 原光好さん(高21回)からご寄稿をいただきました。このコーナーでは、同窓生のご寄稿も紹介して行きますので、同窓会まで、どしどしお寄せください。


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私の競争優位性は縣陵卒

原 光好(高21回卒)

 日本で発刊される書物の末尾には、著者や編者および発行者や発行地と発行年などの出版情報を記載した奥付(おくづけ)があり、多くの場合には著者あるいは編者の略歴が添えてある。奥付そのものは由来書なのだが、江戸時代の出版取締のために法制化され、第2次大戦後に廃止されて、現在では法的には掲示義務がないものの、発刊物に対する製作者側の責任を示すものとして慣習的に継続して掲載している。購入者や読者にとって、書物の発行年は内容の鮮度を測る目安になるし、著者あるいは編者の略歴は内容の信頼度合いを推測する拠り所になっている。

 私は縣陵を卒業と同時に金融機関へ就職し、退職後は長年の経験を活かして、業界雑誌への記述中心に融資業務の解説や指導をしている。そして、自署『実務密着型!融資レッスン99』を発刊するに際して、著者略歴を掲載することになった。通常では、略歴には出生年と出生地、学歴や職歴、主な成果や所属団体などを記入する。学歴は、超有名大学を卒業した場合には学校名を表示するが、超有名大学以外の大学卒あるいは大学に進学しなかった者は学歴を非開示にする傾向がある。しかし、大学卒が一般的なこの業界での私の"売り"である競争優位性は"高校卒"なので、「長野県立松本県ヶ丘高校卒」と学校名を明示して高校卒であることを記した。

 就職活動をする時には、必ずと言っていい程に履歴書の提出を求められる。当然、学び舎である学校名を記入する。企業内での学歴廃止論が叫ばれて久しいのに、今や修学履歴としての中卒・高卒・大卒の学歴ではなく、大学進学率が向上しているためか、世間全般が大学名での学歴に関心が移っている。私が就職した頃の銀行では、かつては甲・乙・丙という隠語で大卒・高卒・中卒を区別していた。採用時点での知識・能力の差異を認識していた私は、幸いにも学歴での不利益は感じなかったし、むしろ高卒であったことで卒業大学別での学閥の弊害を受けずに済んだ。

 縣陵の同窓会から送付して頂く新聞には、毎年、進学を希望する生徒の大学別入学試験合格延べ人数が掲載されている。私たちの卒業時にも圧倒的に進学希望者が多かったが、現在では特別な理由がない限り進学を目指すようだ。そして、難関と言われる大学への合格者が増えている気がするので喜んでいる。しかし、私たちの卒業時と同様に、進学浪人をして、その後に就職へと進路を変更する"最終学歴が縣陵卒"の生徒も相当数いることと推測している。社会構造や仕事の仕組みが複雑化して高度な知識が必要なこともあって、大学卒が"普通"と感ずるように確実に高学歴社会になっている。私が勤務した銀行では、高校新卒の男性行員を採用しなくなって久しい。高校卒を競争優位性にしている私とて、勤務していた銀行が世界トップクラスの規模なので、多少の信頼を得ていることであろう。

 学歴を問われる度に、私は「松本県ヶ丘高校卒」と必ず答えるので、時々は「どういう高校ですか?」との再質問を受けるので、「いわく、全国的には普通の進学校ですが、何か問題でも」と言うことにしている。もちろん縣陵には格別な想入れがあるものの、誰でも母校に愛着を持っているので、殊更に説明はしない。仕事は内容や結果で評価されるべきであるが、学歴もその者の持つ個性の一部である。縣陵が学歴ブランドになるかは、学び舎としての縣陵を通過した者たち全員の"生き方"に懸かっていると思うのである。





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